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古代常陸国新治郡の中心地、新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと) 史跡
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この記事では、新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)について紹介しています。

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)は、茨城県筑西市古郡に位置する古代の郡衙(郡役所)の遺跡です。

茨城県筑西市古郡に所在し、大化の改新のあとに作られた郡役所の跡とされていて、新治廃寺からは北へ200〜300メートルほどの場所にあります。

この遺跡は常陸国(現在の茨城県)の新治郡に属していたと考えられています。

以下、新治郡衙跡の主な特徴と歴史的重要性について詳しく説明します。

新治郡衙跡(にいはりぐんが)とは

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)

新治郡衙跡は、古代の郡役所の跡とされていて、特に大化の改新のあとに設置されたと考えられています。

郡衙(ぐんが)とは、日本の昔の律令制度の中で使われていた役所のことです。当時の常陸国の新治郡の役所があったということです。

現在も新治駅という名称が残っていますので、約1400年以上前の群名が残っていて、とても歴史が長いということを感じます。

遺跡は、新治廃寺の北へ200〜300メートルほどの場所にあり、1941年から1949年にかけて発掘調査が行われました。

その結果、全部で52棟の建物跡が見つかっています。

建物は北部、南部、東部、西部の4つのエリアに分かれていて、それぞれに特徴があります。

北部には25棟、西部には9棟(ここは政庁だったと考えられています)、東部に13棟、そして南部には4棟が確認されました。

建物の並び方などから、北部と南部にある建物は倉庫として使われていたようです。

さらに、東部からは焼けたお米が発見されていて、これは817年に起きたとされる火災の跡だとされています。

この火災が原因で、郡衙はその後使われなくなったと考えられています。

発掘調査は、1941年・1943年・1949年の3回行われ、とくに1949年には多くの建物跡が明らかになりました。

現在、遺跡の大部分は農地として使われていて、灌漑用の水路も整備されています。

まだ保護計画は正式には決まっていませんが、筑西市教育委員会が保存や活用に向けた計画を発表しています。

新治郡衙跡は、古代の地方行政のあり方を知るうえでとても大切な遺跡です。

文献だけでなく、実際の遺構からも当時の行政機関の様子が見えてくるので、貴重な学びの場となっています。

この地域には「古郡(ふるこおり)」という地名も残っていて、こうした名前からも歴史の深さが感じられます。

地域の文化的背景を知る手がかりにもなる大切な場所として、これからの研究や保護活動にも期待が高まっています。

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)遺跡の概要

新治郡衙跡は、茨城県筑西市古郡にあり、周辺には今も昔ながらの田園風景が広がっています。

近隣には新治廃寺をはじめとする関連史跡が点在しており、古代の政治・宗教の中心地であったことがうかがえます。

新治廃寺から北へおよそ200〜300メートルの位置にあり、地形的にも見晴らしの良い微高地に築かれているのが特徴です。

周囲には当時の堀や道路跡とみられる痕跡も確認されており、郡衙の範囲や構造を推定する手がかりとなっています。

1941年(昭和16年)から1949年(昭和24年)にかけて、3回にわたり本格的な発掘調査が行われました。

戦時中という厳しい環境の中でも、地元の研究者や教育関係者の尽力により調査が継続され、結果として52棟もの建物跡が確認されています。

これらの建物は当時の行政機能や物流の要であったことを示す貴重な資料となっており、発掘品の中には土器や木簡、鉄製品なども含まれています。

これらの出土品は新治郡衙の活動を具体的に示す重要な手がかりであり、古代の地方官庁の実像をより立体的に理解させてくれます。

建物跡は、北部・南部・東部・西部の4つのエリアに明確に分かれており、それぞれに異なる機能が割り当てられていたと考えられています。

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)遺跡へのアクセス

〒309-1104 茨城県筑西市古郡478

指定: 1968年(昭和43年)5月20日に国の史跡に指定されました。
指定面積: 116,615m²(約11.67ha)。

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)の発掘調査と遺構

新治郡衙跡の発掘調査は以下のように行われました。

1941年(昭和16年)と1943年(昭和18年)に最初の調査が実施。
1949年(昭和24年)にも調査が行われ、合計3回の調査が実施されました。
調査の結果、以下のような遺構が発見されました:
建物跡: 合計50~52棟の建物跡が検出されました。
配置: 建物跡は4つの群に分かれています。
北部群: 24棟
西部群: 9棟
東部群: 13棟
南部群: 4棟

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)の遺構の特徴

基礎構造: 建物跡には版築が施されており、一部に礎石の存在が確認されています。
規模: 一般的な建物の基礎は12m×9mほどですが、44m×12mの大型建物の基礎も発見されています。
配列: 建物群は3列または4列の規格性を持って整然と配置されています。

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)の歴史的背景と重要性

郡衙の機能: 新治郡衙跡は大化の改新以後に設けられた郡役所の跡と考えられています。
火災の記録: 『日本後紀』には、弘仁8年(817年)に新治郡で火災が発生し、不動倉13棟と穀物9,990石が焼失したという記録があります。

遺構と記録の一致: 東部建築群の13棟が『日本後紀』の記述と一致しており、この部分が不動倉跡と考えられています。実際に、東部建築群跡からは炭火材とともに焼き籾が発見されており、この推測を裏付けています。
建物群の用途推定:
西部建物群: 郡家(郡衙の中心施設)跡
北部建築群と南部建築群: 倉庫跡
郡衙の廃絶: 817年の火災によって郡衙が廃絶したと推定されています。

まとめ

新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)は、古代日本の地方行政制度を知るうえで欠かせない極めて重要な遺跡です。

ここでは、律令国家のもとで地方がどのように運営されていたのか、その実態を生きた証拠として見ることができます。

郡司たちが政務を執り行い、戸籍や税の管理、物資の保管などを担っていた当時の姿が、この地からリアルに伝わってくるのです。

行政の中心であると同時に、地域社会の経済や文化を支えた場所でもあり、まさに古代の“県庁所在地”と呼ぶにふさわしい存在といえます。

文献と発掘結果が驚くほど一致する数少ない例として、学術的にも非常に高い価値を持っています。

考古学・歴史学・地理学の各分野がこの遺跡を研究対象として注目しており、古代の地方統治構造を解明するための基礎資料として位置づけられています。

また、出土品や遺構の状態が良好であることから、教育的・文化的な価値も高く、今後の保存・活用のあり方が期待されています。

周辺には「古郡(ふるこおり)」という地名が今も残っており、千年以上の時を超えて当時の行政単位の記憶を伝えています。

現地を訪れると、広がる田園風景の中にどこか荘厳な静けさを感じることでしょう。

案内板や説明碑も整備されており、歴史散策にぴったりの場所です。

歴史好きの方や考古学に興味のある方はもちろん、地元の文化や風土に触れたい方も、ぜひ現地を訪れて古代の空気を肌で感じてみてください。

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